※別のところで書いていた読書記録を転載。
実際に読んだのは2022年8月19日くらい。
『食う寝る座る 永平寺修行記』野々村馨
「永平寺の生活は(中略)、ある意味では何者にも頼らず、自分の力ですべてを成しとげる、人間としての自信を心と体でつかみ取る生活でもあった。」
「自然は気づく者には雄弁だが、気づかない者には姿さえ見せない。」
「宗教は解明するものでなく、信じるものである。(中略)人によってさまざまだが、それが信じられれば、その人にとっての一つの宗教なのだと思う。」
「その一瞬のあるがままを、すべて無条件に受け入れる。これが一年を坐りぬいて感じた、僕の『只管打坐』だった。」
「禅における自由とは、『自分が』『自分の』といった意識から解放されたところに現われる。(中略)自分の内面にある欲望やその他もろもろの精神的なものから解き放たれることである。そこに、何ものにもとらわれることのない、心の自由が生まれる。」
「もしも人間が生きるということに意味があるとすれば、まずこの世に存在していること、これこそが生きることの根本的な意味なのだと僕は思う。」
「まず、このただ生きているという事実を無条件に受け入れ、そしてその生を営ませている日々の一瞬一瞬を大切に生きる」
バイオレンス。
びっくりするほどバイオレンス。
旅行でお寺にはいくつか行っているけど、
今のところ私の中で「ここは空気が違う」と思ったお寺の一つが、こちら永平寺。
(金剛峯寺や奥の院などひっくるめた高野山も違ったなぁ。スケールがすごい。)
で、あれ程にも厳かというか研ぎ澄まされたというか…な空気が流れる永平寺の秘密が少しでも分かれば…と手に取った本だけれども。
坐禅のときにパァァァン!ビシィィィ!って肩叩かれるくらいかと思ってた私。
特に序盤のあまりのバイオレンスさに「これは読んでいいのだろうか…」とドキドキした。
あまりに予想外だったので、映画『孤狼の血』や漫画『なるたる』ののり夫のシーン並みに「読んでいいんかコレ…」とビビる。
著者が修行していたのは1989年頃なので現状は不明だけど、
規律(規矩)作法を間違えると暴言暴力。自己を捨てさせるために暴言暴力。
殴る蹴る平手打ち突き落とし。
新入りである著者たちはそんな洗礼を受けるわけだけど、
その衝撃に読者も読み進める上での洗礼を受けている気分になる。ひぇぇぇ
(仏教の話に洗礼とは)
中盤で、禅は昔からそうだったとか、一つの修練であり錬磨であるとあり、
言っていることはわかるけど…。
当時は当時として、今はどうなんだろう…とか、
約十年前に行ったときにすれ違ったお坊さんらも、こんなんしたりされたりしていたのか?とか、
ぐるぐる…。
ご飯も少量しかないから全然足りなくて、本能むき出しで規律破って我先にと残飯あさったり。
そもそも栄養の偏りが原因で脚気になって次々入院したり(ご飯おかわりしないとひもじい、したらしたで栄養バランス崩れて脚気)。
想像以上に過酷。
でも終盤、月日が経って筆者が古参の立場になると、指導する側の苦労も推察され、確かにただ暴力を振るっている訳ではないのだなぁと。是非というか必要性は私には分からんので置いておく。
中盤以降は修行生活にも多少の余裕が出て人間味のあるエピソードが増えるので、ビクビクせずまったりと。
雲水さんも「箸落としただけでなんでこんな…」とか普通に愚痴こぼすんだなぁとか、
戦争など辛い思いをした人たちにとって、永平寺は確かに大きな救いになっているんだなぁとか。
あぁ、なんだか序盤の衝撃がずーっと尾を引いていたけど、筆者が永平寺を去るときにはなんとも言えない気持ちになった。
学校卒業したときみたいな、昨日まで当たり前に日常を送っていた場所との別れというか。もう戻れない。
いつの間にか私も永平寺で苦楽を共にした気分になっていた。
永平寺がなぜあのような空気を漂わせているのか、その理由が少しは分かった気がする。
今度は覗き見ではなく、最初から自分も修行するつもりで読み返したい。
また違う感動があると思う。
いい読書体験だった。
永平寺また行きたいなぁ。
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